『去年はいい年になるだろう』について、もひとつ今頃気付いた(透明部ネタバレ)

 ようやく、なんで過去の山本作品に比べて本作の評価が俺的に低いのか、分かった気がする。
 2002年までは上手くいってた、少なくともガーディアン側の主観において、10年後に「もう大丈夫。よし、次へ向かおう」と判断できてた作戦が、何故に2001年では破綻したのか、何が違うのか。それは受け入れ側の人類社会が911を体験してたかどうかなんだ。911を体験した人類社会はガーディアンによる強引な社会変革も、「あの惨事を再発させないためなら少々強引でもまぁ良いか」と受け入れ、未体験の側は「理念は分かるが、いくら何でも強引すぎる」と。*1
 で、これが6章で語られる「僕〇九」の絶望と構造的に相似であり、かつ「僕〇九」は本作の執筆時点の山本弘に限りなく近い。てことで、本作から俺は「僕(山本弘)がこれほど打ちのめされる事件だから、人類社会も決定的に変わったはずだ」という主張を読み取っちゃったわけだ。つまり、、あえて単純化しちゃえば「作者のものの感じ方 イコール 人類社会のスタンダード」と。
 基本的に俺の好みとしては、創作作品、特にSFには、既存の価値感を相対化して「お、そんな見方もあったのかよ」と驚かせて欲しいんであって、現代日本に生きる作者本人の内面をモロに読まされるのは想定外なんだな。しかもそれが「作者の価値感が普遍的であることの主張」となると、さすがに消化不良を起こさざるを得なかったわけだ。

*1:てことは本作は、山本弘版「白い服の男」であるとも言えそうだ。いやぁ、あらゆるSFネタはすでに星新一によって書かれているのかも知れないなぁ。